グローバリズムと大不況、今年を振り返って
- 2008.12.30 Tuesday
- 09:14
今年も残すところあと2日。
相変わらず時間が飛ぶように過ぎ去っていく。
今年一年も沢山の出来事が自分と家族には起こりました。
今年自分にとっての最大の出来事といえば、今の生活に対して自分なりに危機感を抱き、種子島への移住に向けて具体的に動き出したことだろう。
移住を考えたのが6月頃、その頃でさえ世の中に対しどうしようもない閉塞感と行き詰まり感といったものを感じていたものだが、それがたったの6ヶ月でいまや未曾有の世界的大不況。
いったいだれがここまでのものになると予想していただろう?
グローバリズムというか、世界的な経済の相互依存の恐ろしさを今身をもって感じている。
常に新しいモノを作りつづけ売り続けて、消費してもらわなければ、資本主義経済というものは成り立たず、その為には常に新たな資本と新たな市場、そして消費者を開拓し、拡大していかなくてはならない。
企業だって国内市場だけではとてもじゃないがやっていけず、新市場を求めて地球規模で展開している。
順調に市場を開拓し業績を伸ばしている間は良いが、拡大を続けて一度大きくなりすぎた企業は、その生産と販売量を落とす事は難しく、常に新たな市場を求め開拓していかなくてはならない。
しかしモノは溢れ返っているというのにこれだけ小さくなってしまった地球の、どこにこれ以上そんな市場と元になるエネルギーが存在するのだ?
グローバリズムが世界的に進んでいく中で、富の一極集中が進み、豊かな者は極端に富み、貧しい者はいくらあがいても貧しい。
”ダーウィンの悪夢”というアフリカでの現実を描いたドキュメンタリー映画を是非見て頂きたい。
そこには”グローバリズム”という美しい響きの言葉の裏で、もだえ苦しむ人々の姿が克明に描かれている。
世界的な経済相互依存とその裏に潜む危うさ。
日本の主な輸出産業である、車や電化製品などにもそれは顕著に現れている。
車を例に出してみれば、化石燃料の枯渇と環境問題が大きく叫ばれる中で、これまでと同じ様な新車の生産量と利益を保ち続けることなんて不可能なのは誰が考えても分かりきったことだ。
”エコロジー”と言う言葉も、それが企業の販売戦略として使われると、急に嘘臭く陳腐な言葉に変わり果てる。
自動車メーカーや石油企業などのCMを見る度に、嫌悪感と怒り、うそ寒さを覚える。
”これまで誰が一番環境に悪い事をしてきたんだよ”と叫びたくなるのは自分だけではないはずだ。
”環境のために木を植えています”だの”子供達の未来のために”だの、いままで散々痛めつけておいて、なにをぬかす
今の企業の”エコ”を例えるなら、相手を刀で散々切りつけ致命傷を負わしておいて、その相手に絆創膏一枚貼り付けて、一緒に傷を治すのに頑張りましょうと言っているようなものだ。
今の地球上には、必要に充分な数のモノはもうすでに存在している。
それを大事に修理して使うことが一番のエコだ。
”エコ変え”などという愚にも付かない事を天下のトヨタが提唱しているのを見れば、いくら企業が環境!環境!と叫んだ所で、その意識は消費経済という原理を越える事などない。
自動車一台生産するにも膨大なエネルギーと石油が必要なのに。
先日、忘年会の席で今話題になっている派遣従業員の解雇についての話題になった。
自分の意見としては、人間を使い捨ての部品のようにしか扱わない企業の体制、そしてそれを規制緩和の名の下今まで黙認してきた行政に対し非常に憤りを感じていると述べた。
しかし人が変われば考えも変わるもので、自営業の知人の考えは”こうなる以前に自分の会社で求人募集をした際には、自分達のような中小零細企業には全く応募もなかった。だからあれは仕事を選り好みし、今までその環境に甘えていた彼らの自己責任だ”とういう意見であった。
”なるほどな〜、そういう考え方もあるんだな〜”と考えさせられた。
この問題の全てを、行政の責任にするのも、また彼らだけの自己責任にしてしまうのも、どちらも間違いの様な気がする。
この時代、先の事など誰にも分からない。大企業に勤めていたとしても、昔のように一生安泰だなんて時代ではなくなった。
”頑張った人間が豊かになり得をするのが健全な社会”
それは正しい。が、一握りの強者が大多数の弱者を牛耳る世の中には住みたくない。
来年はどんな一年になるのかなあ?
相変わらず時間が飛ぶように過ぎ去っていく。
今年一年も沢山の出来事が自分と家族には起こりました。
今年自分にとっての最大の出来事といえば、今の生活に対して自分なりに危機感を抱き、種子島への移住に向けて具体的に動き出したことだろう。
移住を考えたのが6月頃、その頃でさえ世の中に対しどうしようもない閉塞感と行き詰まり感といったものを感じていたものだが、それがたったの6ヶ月でいまや未曾有の世界的大不況。
いったいだれがここまでのものになると予想していただろう?
グローバリズムというか、世界的な経済の相互依存の恐ろしさを今身をもって感じている。
常に新しいモノを作りつづけ売り続けて、消費してもらわなければ、資本主義経済というものは成り立たず、その為には常に新たな資本と新たな市場、そして消費者を開拓し、拡大していかなくてはならない。
企業だって国内市場だけではとてもじゃないがやっていけず、新市場を求めて地球規模で展開している。
順調に市場を開拓し業績を伸ばしている間は良いが、拡大を続けて一度大きくなりすぎた企業は、その生産と販売量を落とす事は難しく、常に新たな市場を求め開拓していかなくてはならない。
しかしモノは溢れ返っているというのにこれだけ小さくなってしまった地球の、どこにこれ以上そんな市場と元になるエネルギーが存在するのだ?
グローバリズムが世界的に進んでいく中で、富の一極集中が進み、豊かな者は極端に富み、貧しい者はいくらあがいても貧しい。
”ダーウィンの悪夢”というアフリカでの現実を描いたドキュメンタリー映画を是非見て頂きたい。
そこには”グローバリズム”という美しい響きの言葉の裏で、もだえ苦しむ人々の姿が克明に描かれている。
世界的な経済相互依存とその裏に潜む危うさ。
日本の主な輸出産業である、車や電化製品などにもそれは顕著に現れている。
車を例に出してみれば、化石燃料の枯渇と環境問題が大きく叫ばれる中で、これまでと同じ様な新車の生産量と利益を保ち続けることなんて不可能なのは誰が考えても分かりきったことだ。
”エコロジー”と言う言葉も、それが企業の販売戦略として使われると、急に嘘臭く陳腐な言葉に変わり果てる。
自動車メーカーや石油企業などのCMを見る度に、嫌悪感と怒り、うそ寒さを覚える。
”これまで誰が一番環境に悪い事をしてきたんだよ”と叫びたくなるのは自分だけではないはずだ。
”環境のために木を植えています”だの”子供達の未来のために”だの、いままで散々痛めつけておいて、なにをぬかす
今の企業の”エコ”を例えるなら、相手を刀で散々切りつけ致命傷を負わしておいて、その相手に絆創膏一枚貼り付けて、一緒に傷を治すのに頑張りましょうと言っているようなものだ。
今の地球上には、必要に充分な数のモノはもうすでに存在している。
それを大事に修理して使うことが一番のエコだ。
”エコ変え”などという愚にも付かない事を天下のトヨタが提唱しているのを見れば、いくら企業が環境!環境!と叫んだ所で、その意識は消費経済という原理を越える事などない。
自動車一台生産するにも膨大なエネルギーと石油が必要なのに。
先日、忘年会の席で今話題になっている派遣従業員の解雇についての話題になった。
自分の意見としては、人間を使い捨ての部品のようにしか扱わない企業の体制、そしてそれを規制緩和の名の下今まで黙認してきた行政に対し非常に憤りを感じていると述べた。
しかし人が変われば考えも変わるもので、自営業の知人の考えは”こうなる以前に自分の会社で求人募集をした際には、自分達のような中小零細企業には全く応募もなかった。だからあれは仕事を選り好みし、今までその環境に甘えていた彼らの自己責任だ”とういう意見であった。
”なるほどな〜、そういう考え方もあるんだな〜”と考えさせられた。
この問題の全てを、行政の責任にするのも、また彼らだけの自己責任にしてしまうのも、どちらも間違いの様な気がする。
この時代、先の事など誰にも分からない。大企業に勤めていたとしても、昔のように一生安泰だなんて時代ではなくなった。
”頑張った人間が豊かになり得をするのが健全な社会”
それは正しい。が、一握りの強者が大多数の弱者を牛耳る世の中には住みたくない。
来年はどんな一年になるのかなあ?